2018年05月20日

キリシタン大名・高山右近

「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」が、世界遺産に登録される見込みであるとの報道がありました。
禁止令の中、信仰に生きた民衆の姿が、辿れる遺産と言えます。
一方、信仰に生きた戦国大名がいて、その名は「高山右近」で、「キリシタン大名」として知られています。

◎福者(ふくしゃ)
長崎ほど、大きな報道はされませんでしたが、高山右近は、2016年にローマ法王庁から、カトリックで、聖人に次ぐ崇敬対象の「福者」と認められています。

◎大阪ゆかりの人物
高山右近は大阪・高槻市では、10年余り高槻城主であった事から、馴染み深い人物となっていて、観光的にも、右近ゆかりのもモデルコースが人気となっています。

◎近畿ゆかりの人物
高槻イメージが大きい右近ですが、生誕の地は、大阪府・豊能町である事は余り知られていなく、高槻の次に移ったのが、兵庫・明石市、京都山崎の戦いでは、秀吉の先鋒を務め、滋賀賤ケ岳の戦いにも加わっています
又、沢城(奈良県宇陀市)で、洗礼を受けました。

◎有能な戦国大名
キリシタン大名と言う面だけでなく、家康からは、「右近の千人の兵は、他将の一万人」と評されたほどの武勇、先進的な城下町造りなど、有能な戦国大名でもありました。

◎信仰エピソード
○高槻城下に、20以上の教会を立て、領民25000人の内、18000人が、キリシタンでした。
○信長に大軍で迫られ、元々、このほか戦いには、否定的だった事もあり、「味方すれば、教会をどこに建ててもよいが、拒めば、キリシタンを根絶やしにする」と言われ、降伏し、所領は、安堵されました。
○秀吉が、バテレン追放令を出し、多くのキリシタン大名が、棄教しましたが、利休の説得にも、心変わらず、大名を地位を捨てました。
○その後、前田家の客将になり、厚遇されましたが、1614年のキリシタン穀が、追放令で、日本を去り、翌年にフィリピン・マニラで、亡くなりました。
posted by 橙花 薫 at 10:00| トレンド | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする